Thursday, July 26, 2007

Rainbows End, by Vernor Vinge

さて今日はヴァーナー・ヴィンジの『レインボウズ・エンド』の番ですよ。例によってもう少し詳しい紹介を。見事ローカス賞のほうは射止めてますが(SF長編部門)、現実的な近未来描写と等身大の登場人物による力みのないストーリイをどう評価するかですね。やはり小説としても上手いし、テーマとアイデアをしっかり盛り込みながらごく自然に見せてしまうのはさすがヴィンジ。ただ、その上手さが逆に一見してのインパクトを鈍らせているような印象です。よく読むとすごいし、あとから利いてくるタイプのいい作品なんですけど。

Rainbows Endヴァーナー・ヴィンジの7年ぶりの長編とくれば、『遠き神々の炎』、『最果ての銀河船団』に続く大掛かりなスペース・オペラの第3部か、シンギュラリティの提唱者としての激変した近未来を期待してしまうが、意外にも今作は出世作の『マイクロチップの魔術師』に通じるような、地に足の着いた現実的なハイテク・スリラーとなった。とはいえ、ワン・アイデアのエスカレーションによるサスペンスを追った一般的なテクノスリラーとは根本的に異なり、ヴィンジの描く 20年後の世界は、グローバルな高度監視社会と、ユビキタス・コンピューティングによる個人の自由度の拡大を対極に置き、その間を現在のネットワーク・テクノロジイの延長線上で考えられる様々な要素で埋めた、リアルな近未来像で構築されている。

2025年、テロ対策のため世界各地の動きに監視の目を光らせるヨーロッパのシンクタンクは、奇妙な符号に目を留めた。あるサッカーの試合の中継を見て暴徒化した人々と、ローカルなインフルエンザの流行に相関関係が見られたのだ。生物化学兵器による選択的な思考操作の実験を察した指揮官は、協調関係にあるインドと日本の諜報機関の代表をテレ・プレゼンスで呼び出し、カリフォルニア大学で秘密裏に行われていると見られるウィルスの開発に捜査のメスを入れることを決断する。とはいえ、アメリカの国防機関にその動きを悟られるわけには行かなかった。インドの代表は、以前使ったことのあるフリーランスの工作員を推薦する。だが、ウサギの姿で現れた工作員は、別の意図を内に秘めていた。

この世界的規模の動きに対し、ヴィンジが用意するのは、およそヒーローには似つかわしくないセカンド・ライフを得た老人と子供の連合軍である。このあたり、大局的な動静をローカルな事件が左右するという作者のおなじみのパターンといえるだろうか。米国防省の指揮官の家では、国家的一大事よりも、居候となった老父の扱いに手を焼いていた。アルツハイマーの治療に成功し、若返り手術を受けたはいいものの、アメリカを代表する詩人として名声をほしいままにした英文学者の父は、かなりの難物だったのだ。だが、実の孫娘にまでつらく当たる様子を見て、息子夫婦は彼を地元の中学校にリハビリのために送り込む。

とはいえ、このフェアモント中学校、じつはこの長編のパイロット版となった中編 "Fast Times at Fairmont High" でも舞台として使われていて、この時代の子供たちはウェアラブル・コンピュータと仮想現実を自由に使いこなし、企業活動に直結するデータ・マイニングと問題処理能力を学習しているという設定。主人公は、衣服とコンタクトレンズを入出力にした最新のコミュニケーション技術を習うと同時に、チーム作業での研究開発の実習を強いられる。だが、自尊心の塊のような主人公にとって、並みの中学生に混じっての共同作業など、侮辱にも等しい扱いだった。さらには、離縁された亡き妻への郷愁や、詩を書く能力の喪失にも苛まれ、彼は次第に問題児と化していく。唯一の救いは、彼の詩の朗読に感銘を受け、文章の書き方の教えを乞う、一人の少年の存在だった。

一方、地元の大学では、蔵書を裁断しながら記録を行う図書館の暴挙をめぐって、学生たちの反対運動が活発化していた。主人公は昔の知り合いの老人たちとともに、裁断機を破壊するための秘密活動に狩り出されるが、それは「ウサギ」が仕掛けた工作の隠れ蓑に過ぎなかった。デジタル社会を彷徨う不思議の国のアリスの境遇にも似た主人公の行動は、仲間の老人や中学生、はたまた彼の身を案ずる孫娘の協力を得て、図らずも世界規模の陰謀に対抗することとなる。それは同時に、主人公の人間としての再生も意味するものだった。

じつのところ、テクノスリラーの枠組みは便宜上の設定に過ぎず、ヴィンジの主眼は高度ネットワーク社会の行き着く先と、そこで生きる人々の自己実現のありかたを描くことにあるようだ。ここでは、国家による監視と企業の人心操作と平行して、視野に入るオブジェクトとデータベースを結びつけたタギングや、ヴィジュアルの重ね合わせによりゲームの中の世界のように変貌した現実が描かれ、瞬時の通信が意思疎通をサポートする。高度な管理社会は、個人の能力を最大限に引き出せる場でもあるのだ。同時に、そこではコラボレーションが大きな力を持つ。SFというよりは、やけにリアルなヴィジョンである。

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Wednesday, July 25, 2007

Eifelheim, by Michael Flynn

今日はマイクル・フリンの『アイフェルハイム』のもう少し詳しい紹介を。こちらも力作ですね~。『ブラインドサイト』がなければこちらを一番に推すんですけど。邦訳を出して欲しい作品ではありますが、翻訳者がかわいそうかも^^;

Eifelheim宗教と迷信と封建制にがんじがらめにされ、文化的には縮退期にあった欧州中世の人々が、もし異星人と出会っていたとしたら一体何が起きていただろうか。悪魔が出現したと恐れおののき、原始的な武器を手にした騎士団が無益な負け戦を繰り広げる、ウェルズの『宇宙戦争』の中世版というのがもっともありそうなシナリオだろうか。だが、フリンの提示するファースト・コンタクトのバリエーションは、頑迷な暗黒時代という一般常識を覆し、中世の本質に切り込みながら、様々な階層の人々を配したごく人間的な物語を紡いでいく。

じつはマイクル・フリンには、1986年に発表され翌年のヒューゴー賞の候補になった同名のノヴェラがある。統計歴史学者と理論物理学者のカップルが、中世ドイツのシュヴァルツヴァルトに、計算上は存続していてしかるべきなのに、なぜか消滅してしまった町アイフェルハイムの謎を追ううちに、ファースト・コンタクトの存在と次元宇宙論のブレイクスルーに至るという骨子なのだが、20年を経て、作者はそのバック・ストーリーとなった中世の出来事を長編として書き起こすことにしたようだ。もともとのノヴェラは枠物語として作中に挿入され、中世パートとの対比・呼応による相乗効果をもたらしている。

ペストの影に怯える 14世紀のドイツ、シュヴァルツヴァルトの片隅に位置する町オーバーホーホヴァルトは、突然異変にみまわれた。轟音とともに雷が落ちた直後のように金属が帯電し、一部で火災が発生した。数日後、領主から、森に違法に住み着いた侵入者の調査を命じられた司祭ディートリッヒは、森の中に建てられた奇妙な館と、異形の一群に遭遇する。瞼のない巨大な目とペンチのような口で、灰色の肌をした長身がひょろ長い手足で動き回る様子は容易にバッタを連想させた。

じつはこのディートリッヒ、田舎町の司祭には似つかわしくない高度の見識の持ち主だった。パリにてビュリダンに師事し、ウィリアムのオッカムとも同僚だった司祭は、当時の神学の基礎となる論理学と自然科学に通じたトップレベルの学者だったのである。異形の者を悪魔として排斥することは可能だったが、ディートリッヒの理性が安易な判断を許さなかった。あからさまな攻撃性はないと判断した司祭と町民は、闖入者とおそるおそるの交渉を始める。

クレンケンと名づけられた余所者が所有する音の出る小道具により、相互の理解は徐々に深まっていく。抽象概念はなかなか通じないものの、それは自己学習型の翻訳機だったのだ。ディートリッヒは、旅行者を乗せて移動中の彼らが事故に遭い、森の中に頓挫したいきさつを知る。この世界で必要な資材を調達し修理するまでは、彼らはここに留まらざるを得ないのだ。

司祭の知識の吸収が始まった。ほぼ現代の人類と同等の技術力を持つクレンケンの宇宙論や物理学、生物学は、中世の知識の枠組みや用語を通してディートリッヒに咀嚼される。一方、蜂の社会のような階級構造を持つクレンケンの世界も、司祭の神学の影響で変化を受ける。また、ユダヤ人迫害に端を発した他の町との抗争やペストの侵入は、栄養素不足で斃れていくクレンケンの人間社会への貢献を強いていく。

神の概念を持たない異星人との神学問答は、誤解を交えた滑稽なやり取りから、次第に他者への理解と愛という本質に迫っていくが、このあたり、やはり神学とファースト・コンタクトを扱ったメアリ・ドリア・ラッセルの傑作 The Sparrow での緊張感を思い起こさせ、興味深いものがある。

異星人の姿かたちから「悪魔の棲む町」トイフェルハイムと呼ばれるようになり、いまはアイフェルハイムの名を残す地図から消えた町の物語は、同様にペストの悲劇にみまわれた中世を描いたコニー・ウィリスの『ドゥームズデイ・ブック』のように、そこに生きた人々の教会を中心とした日常を克明に焙り出す。チョーサーの『カンタベリー物語』の登場人物を配したかのような、当時のスタイルを模した文体で語られた物語は、馴染みのない言葉が頻出すること以上に、その情報量の多さで読者の努力を強いる。だが、主人公とともに中世の視点で現代の科学を読み解き、ルネサンス期へと通じる知識探求の萌芽を共有しながら、宗教と科学と社会のバランスをうまく取って危機に対処してきた人々の生活に触れるとき、努力に見合った以上の感動が押し寄せてくる。

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Tuesday, July 24, 2007

Blindsight, by Peter Watts

個人的に大プッシュ中のピーター・ワッツの『ブラインドサイト』ですが、以前紹介したものよりもう少し詳しいレヴュウを書きましたので、ポストしておきます。作品のほうは作者のサイトでも公開されてますので、読まないのはもったいないですよん^^)

Blindsight自分を自分であると認識すること――自我の意識は、人間と動物とを分けるひとつの指標だといわれている。厳密にいえば、ゴリラやチンパンジー、幼い人間の子供にはないが、オランウータンは自他を認識しているという。

さて、人間の精神活動とは切っても切れない特性として認識されてきた「意識」だが、そもそも「意識」と「知性」と「種の保存」の間には、それほど緊密な関係があるのだろうか。そして、それに付随して生まれた「同情」や「良心」には、いったいどんな意味があるのか。これまで海洋SFを書いてきたワッツが、初めて宇宙に飛び出しファースト・コンタクトものに挑戦した本作では、精神的な改変を受けた人々や AI、はたまた化石遺伝子から復元したヴァンパイアまでが登場して、不可解な異星生物に翻弄される中で、知覚や意識、知性に関する様々な議題をまな板に乗せ、解体し、冷徹な現実に基づいて再構成し、常識に疑問を投げかける。

主人公は、子供時代に癲癇の治療のために脳半球を切除したシリ・キートン。手術の結果、人間的な感情は失う代わりに、他者の反応を客観的に観察して瞬時の状況判断ができる「統合者」の能力を身に着けていた。彼の叙述は、自閉症者のモノローグで語られた、エリザベス・ムーンの『くらやみの速さはどれくらい』を思わせるものがある。非人間的な息子の誕生を悲観して「ヘヴン」という VR 施設に引きこもる母親や、キートンにいささかなりとも人間的な感情を呼び起こそうとするカウンセラーの恋人の心配をよそに、そのキートンにうってつけの任務が現われた。カイパー・ベルトの近辺に発見された、異星人の構築物らしい存在である。

21世紀末、人類はファースト・コンタクトを経験した。それは夜空を等間隔に染める流星雨として降り注いだプローブの群れの形で現われた。出所をつきとめた人類は、量子コンピュータの AI が制御する宇宙船「テーセウス」を用意し、異星生物に対応するための専門家のチームを組織する。体中を各種計測のためのセンサーで機械化した生物学者、多言語分析のため四重人格化された言語学者、そして、部下を見殺しにしながらも交渉を成し遂げた平和主義者の戦闘家がメンバーとして選ばれた。

また、量子 AI の思考を理解するには、ホモ・サピエンスとは異なる認識構造を持つ、ホモ・ヴァンピリスの船長が不可欠だった。自力では合成できない特定のタンパク質の確保のため人類を狩ったヴァンパイアは、自然界にはなかった直交座標の登場により 70万年前に絶滅したのだが、特殊能力を買われ復活していたのである。いや、ヴァンパイアの遺伝子の一部は他の隊員にも移植されていた。コールド・スリープから目覚めるには不可欠だったのだ。そしてキートンは、対象を理解しないまま全体像を把握するという統合者の能力を生かし、各隊員間の状況認識の整理を行うコミュニケーションの役目を負うことになる。

彼らを迎えた異星の巨大宇宙船は英語を話し、自らを「ロールシャッハ」と名乗った。だが、侵入の試みは、熱や放射能、電磁波といった物理的な障壁に始まり、次第に不可解な出来事によってことごとく排除され、徐々に、隊員たちのほうが精神的な影響を受け始める。アルジス・バドリスの『無頼の月』を思わせる、理解不能な構築物との不毛なセッションの趣である。

そして、意外な異星生物に相対しての、「意識」は「知性」にとって不可欠なものなのか、それともたまたま人類が獲得した形質に過ぎず、保身のために脳が見せる幻覚や、あるいは自意識に縛られないサヴァン症候群の人々が見せるひらめきが示すごとく、「枷」でありうるのではないかというスリリングな議論で、作者の筆は真骨頂に達する。

主人公の内面にも等分に筆を割き、サスペンスに満ちたアドベンチャーものとしてのしっかりしたストーリーを維持しながら、背景に織り込まれた現代的なアイデアの数々にも細心な注意が行き届いている。それも、ストロスを遥かに上回るような情報量を盛り込みながら、リーダビリティをまったく落とさない作者の力量は並のものではない。そして、久々に骨太なハードSFを読んだ充実感を感じさせるテーマの掘り込み。透徹した科学的議論が、叙事詩的な美を獲得するのは、稀有の傑作の証拠だろう。21世紀のレムの後継者、あるいはイーガンやチャンのライバルの登場といったら、いいすぎだろうか。

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Sunday, June 10, 2007

Which One Should Win the Best Novel Hugo 2007?

さてさて、今年のヒューゴー賞の長編部門の候補作、一通り読みましたので、まとめて紹介させていただきます。まあごく単純に、今年はピーター・ワッツの Blindsight しかないということを強調したいだけなんですけどね^^)

Rainbows Endヴァーナー・ヴィンジ(Vernor Vinge)の Rainbows End は、いつものスペース・オペラからは離れて、現代のネットワーク・テクノロジイの延長線上にある20年後の世界を舞台にしたハイテク・スリラー。ユビキタス・コンピューティングをメインに据えた、『マイクロチップの魔術師』に通じるような現実的な近未来に終始し、シンギュラリティにまつわる議論は影を潜めているが、ストロス、ドクトロウ、シュローダーあたりの若造にはまだまだ負けないぞとでもいわんばかりに、しっかりと読ませる物語に仕上げている。

SF読者の高齢化に配慮したわけでもないのだろうが、ジョン・スカルジーの『老人と宇宙』とも呼応する、セカンド・ライフを与えられた老齢の主人公の活躍を描いた、「老人力」SFとでもいえそうな作品である。詩人としても名を成した英文学教授の主人公は、アルツハイマーの治療に成功して、息子夫婦の家に居候しながら、リハビリのために地元の高校に通う毎日。チーム作業での研究開発の能力を身に着けると同時に、衣服とコンタクトレンズを入出力にした、最新のコミュニケーション技術を使いこなせるようにすることが目的だった。

とはいえ、自尊心の塊のような主人公にとって、並みの高校生に混じっての共同作業など、侮辱にも等しい扱いだった。さらには、離縁された亡き妻への郷愁や、詩を書く能力の喪失に苛まれ、次第に問題行動を起こすようになる。唯一の救いは、彼の詩の朗読に感銘を受け、文章の書き方の教えを乞う、ひとりの高校生の存在だった。

一方、デジタル化の波に飲まれ、図書館が書物を裁断して読み取りを始めたことから、学生たちの反対運動が活発化していた。主人公は知り合いの老人たちに、裁断機を破壊するための秘密活動に狩り出されるが、それは国家間のバイオ化学兵器の開発にまつわる陰謀の隠れ蓑に過ぎなかった。主人公の身を気遣う孫娘も交えた、老人と子供たちの意外なチームワークが、この陰謀を打ち砕く姿を通して、ありうべき未来像と主人公の再生が見事に描かれている。(もう少し詳しい紹介はこちら。)

Glasshouseチャールズ・ストロス(Charles Stross)の Glasshouse は、《アッチェレランド》のシリーズに連なる長編とされているが、ジャンプ技術を身につけ宇宙に進出したポストヒューマン社会を描く遠未来ものという以外、特にストーリー上の関連はなく、独立して楽しめるものとなっている。

シンギュラリティという発想も、この作品に限ってはほとんど意味を持たず、展開される世界は驚くほど見慣れたもの。なにせ、遠未来のポストヒューマンが、記録の失われてしまった暗黒時代である西暦 2000年前後の人類社会をシミュレートして、そこに潜む思想を理解しようというのだ。ヴィクトリア朝から20世紀前半までは文字情報や写真・フィルムという形で十分な資料が存在するが、20世紀後半から21世紀前半は、すぐに劣化する磁気記録や互換性のない電子情報に多くを頼ったため、その大半が消えてしまったのである。

物語は、記憶の一部を消された男が、「温室」という隔離体の中で目を覚ますシーンから始まる。異星人の姿をした四本腕の女と知り合いになったのもつかの間、再び目を覚ました主人公は、20世紀再現プロジェクトの被験者として、一夫一婦制のサラリーマン社会に送り込まれ、マニュアル通りの行動を余儀なくされる。それも女性として。

以降、無意味な日常に透けて見えるプロジェクトの意図を追うことで、ミーム・ウィルスに蹂躙された過去が浮かび上がり、遠未来という設定が生きてくるわけだが、電子記録からの再生や人体改変、男女の切り替えと、ここに展開するのはなにやらジョン・ヴァーリイ的な世界。ミーム・ウィルスもジョン・バーンズからの借り物であることを考えると、多分に意識してのことだろう。とはいえ、ストロスによって新しい手触りを与えられた物語は、単なるリミックスではなく、21世紀的な存在感を持つ。

Blindsightこれまで海洋SFを書いてきたカナダの新鋭、ピーター・ワッツ(Peter Watts)が初めて宇宙ものに手を染めた Blindsight は、「意識」と「知性」の関係に深く切り込んだ意欲作。21世紀末、カイパー・ベルトの近辺に異変を認めた人類は、AIにコントロールされた宇宙船を調査に送り込む。乗り組むのは、多言語を扱うために四重人格化された言語学者、体の大部分を機械化した生物学者、部下を見殺しにし平和交渉を成し遂げた武官、そして、太古の遺伝子から再生したヴァンパイアの指揮官という個性的な面々である。いや、ヴァンパイアの遺伝子の一部は、他の隊員にも組み込まれていた。冷凍睡眠から目覚めるには不可欠だったのである。

子供時代にてんかん治療のための脳半球切除手術を受け、人間らしい感情を失う代わりに、対象を理解しないまま全体像を把握できるという能力を得た主人公は、特殊な思考形態のヴァンパイアやAIと、隊員との間の通訳を受け持った。彼らを迎えた異星の巨大宇宙船は、英語を話し、自らをロールシャッハと名乗った。だが、侵入の試みはことごとく不可解な方法で排除される。

アルジス・バドリスの『無頼の月』を思わせる、理解不能の構築物とのセッションを描きながら、作者は主人公の内面にも等分に筆を割き、様々なアイデアをまな板に載せ、知性と認識に対する思弁を繰り広げる。ヴァンパイアの登場はまあご愛嬌だが、十字架に弱い理由なども生物学的に説明されていて、テーマと絡めるあたりもお見事といえよう。地味ながら感動的な結末も含めて、ストロスを遥かに上回るような情報量を盛り込みながら、リーダビリティを落とさない作者の力量は一級品で、ハードSFにおける21世紀最初の古典の登場といっても過言ではないだろう。作者のサイトでは全文が公開されているので、是非ともという方は原文にトライしていただきたい。(もう少し詳しい紹介はこちら。)

Eifelheimマイクル・フリン(Michael Flynn)の Eifelheim は、もし中世に異星人が地球を訪れていたとしたら、一体どういう状況が起こっていただろうかという一風変わったファースト・コンタクトの物語。迷信深い人々は異形の姿に悪魔を見、パニックを経て悲劇的な結末に向かったのであろうか。じつはフリンには20年前に同名のノヴェラがあり、現代の歴史学者が、ドイツのシュヴァルツヴァルトにあった小さな町が地図から消えてしまったいきさつを調査するうちに、異星人との接触の痕跡を発見するというプロットだなのだが、今回の長編ではこの部分が枠物語としてそのまま使用され、実際に中世に起きた出来事が、当時の人々の視点で語られるメイン・ストーリーの部分が新たに書き起こされている。

領主の信頼も厚い町のまとめ役は司祭のディートリッヒ。ところがこの司祭、盲信的な宗教者とは程遠い、若い頃にはパリでビュリダンに師事し、ウィリアムのオッカムらとも親交があるという当時の最先端の知識人でもあった。人間大のバッタのような姿の異星人に、最初こそは驚愕しながらも、やむなく不時着した彼らを助けるうちに、翻訳機の助けを借りながら、次第に科学論・神学論が展開していく。この中世的世界観で語られる現代科学の理論や、神学の本質を理解していく異星人の姿の部分が、この作品の読みどころだろうか。

一方、ユダヤ人の排斥に端を発して周囲は騒乱を極め、ペストの蔓延が町を襲い、異星人も次第に町の痛みを分かつことを余儀なくされていく。当時の文体を模したフリンの文章は、馴染みのない言葉が頻出する以上に、圧倒的な情報量で中世の状況を積み重ねていくため、なんとも読みにくい。だが、その描写から立ち現われれてくるのは、決して頑迷な暗黒時代なんかではなかった、ごく人間的な中世の姿である。(もう少し詳しい紹介はこちら。)

His Majesty's Dragon竜の登場するナポレオン戦争ものの3部作を、3ヶ月続けて刊行するという華々しいデビューで話題をさらったナオミ・ノヴィク(Naomi Novik)の His Majesty's Dragon(英題は Temeraire)は、ひょんなことから竜の卵の孵化に立ち会ってしまったイギリス海軍のエリート船長ローレンスの物語の開幕編。最初に餌付けをした人間と絆を結ぶ竜の習性は、ローレンスの空軍への配属替えを余儀なくする。規律の厳しい海軍に比べ、まともな家庭も持てず、竜と寝起きを共にする曲者揃いの空軍への移動は本意ではなかった。

とはいえ、有名な戦艦の名前にちなんでテメレアと名付けられた竜の成長は、意外にもローレンスに喜びをもたらした。金の鎖をもらってはしゃいだり、本を読んでもらって見識を深めたりと、最初は無邪気な子供として、次第になんでも話せる親友として、そしてついには命を預けられる戦友として、パートナーの絆は深まっていく。また、上下関係も緩く、風紀が乱れていると映った空軍も、気心が知れてくるにつれてローレンスの気質になじんでいった。絶対的な制空力を誇るナポレオン軍のドーヴァー海峡横断が懸念される中、テメレアを含む若い竜の訓練が急がれた。

組織の中で壁にぶつかりながらも辛抱強く自分の意思を通していくローレンスの小気味よさや、成長すると体長10メートル、翼長30メートルにもなる竜に乗り込んでの空中戦、はたまた相手の竜に乗り移っての肉弾戦は、海洋冒険ものの王道をそのまま借りてきたといえるだろう。そして、船でありながら戦友である竜との、時にコミカルで時にホロっとさせられる展開はファンタジイならではのもの。パトリック・オブライアンの海洋ものや、アン・マキャフリイのパーンの竜騎士のファンでなくても、よくできた冒険ものを期待する読者にはうってつけの、娯楽ものとしては文句なしの出来の作品となっている。(感想はこちら。)

さて、それではどの作品がヒューゴー賞にふさわしいかといえば、ファンタジイ・ファンの票を集めてノヴィクの His Majesty's Dragon に決まってしまいそうな懸念が多分にありますが、正直よく書けているというだけで、この作品にはこれといったインパクトが全然ないんですよね。わくわくしないというか、カリスマがないというか。同様に、Rainbows EndGlasshouse についても、ヴィンジやストロスのベストとは言いがたいし、期待以上のものはありませんでした。

一方、フリンの Eifelheim は、相当手間をかけて書かれた力作であるし、稀に見る感動作でもあります。例年であればこの作品をベストとしてもいいんではないでしょうか。とはいえ、昨年は何年かに一度現われるかどうかのハードSFの傑作、ワッツの Blindsight がありましたので、まともに読んだ人であればもう疑問の余地はないでしょう。ほんと、受賞して欲しいですね。

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Saturday, April 14, 2007

redRobe, by Jon Courtenay Grimwood

End of the World Blues が英国SF協会賞を受賞したジョン・コートネイ・グリムウッドですが、こちらのインタヴュウによれば、2000年の作品 redRobe が日本に売れたということですので、遠からず邦訳で読めそうです。ということで、昔書いたレヴュウを引っ張り出してみました(懐かしい^^;)。グリムウッドの作品の中ではド派手なほうで、ベースラインは暗いとはいえノリのいいアクションものになってます。ちなみに、作者の代表作アラベスク3部作の紹介はこちら

redRobeサイバーパンクの実体が近未来を舞台にしたハードボイルドだったとすれば、その現在形ともいえるこの作品は、疾走感を加味した近未来アクションものというべきか。ガジェットを多用したいびつな未来は、心象風景というよりは背景のリズムと化し、行動による心理描写というよりは、行動そのものが目的となる。ハイ・ペースな場面展開とざらついた文体は雑然とした現代を活写する。マゾヒスティックな暴力描写はイギリスのお家芸であるが、無慈悲な現実を臆面もなく描き出せるのもイギリスならではのこと。サイバーパンクの後継ぎは、アメリカを離れて、イギリスに住み着いたといえるのかもしれない。

現実とは微妙に異なるタイムラインに属するちょっと先の未来。世界はローマ・カトリック教会と経済機構ワールドバンクに支配されている。女性法王ホアンがヴァチカンの金庫から数百万ドルを持ち出したまま、自殺同然の行動でデモ隊に蹂躙され死亡したことが、様々な波紋を投げかけていた。

日本人の血の混じる少女メイは、スペインの私娼窟から、シルヴェスター神父と名乗る男に連れ出され、声を出せないように唇を縫い付けられたまま、衛星サンサラへと連れ去られる。チベット仏教徒が宙に浮かべた巨大マニ車サンサラは、ダライ・ラマと AI により管理され、国連の難民収容所として機能していた。マイは、おまえの新しい名前はホアンだと告げられる。

かたや、メキシコ。頭蓋に BGM を鳴り響かせ、ヤマハにまたがり最後の仕事へと向かうアクスル・ボルハは、相棒のコルトの忠告に従わなかったばかりにターゲットを仕損じる。 AI 仕様のスマートガン、コルトを失い、捕縛されたアクスルは、枢機卿サント・ドゥックより、極刑を逃れることを条件に、ある仕事を押し付けられる。

メキシコを統治する枢機卿は、法王の使途不明金のスキャンダルのため、その地位を脅かされていた。法王の腹心たちが、生前の法王の意識をコピーしたマイクロチップとともにサンサラへと逃れたことを知った枢機卿は、その奪取のためにアクセルをサンサラへと送り込む。その両目を潰し、促成難民に仕立てて。

難民衛星サンサラは、チベットの高地を模した牧歌的外観とは裏腹に、国連の平和維持軍パックスフォースのイカレた兵士たちに牛耳られていた。合成眼球の移植によりとりあえずモノクロの視野を取り戻したアクスルは、おしゃべりなサルの姿でよみがえったコルトの化身とともに、荒野に法王の残党を追う。サディスティックなあらくれどもに対し、ヒーローには程遠いアスクルだが、素直に枢機卿のいいなりになるつもりはなかった。

ギブスン、スターリングのエコーを遠く響かせながらも、過剰な暴力と皮肉なユーモアの取り合わせは、イアン・バンクスやマイケル・マーシャル・スミスなど、現代のイギリス作家に共通したものといえる。その政治志向も、ケン・マクラウドやチャイナ・ミエヴィルに色濃く見えるものだ。いまひとつ頼りにならない主人公のスラップスティックな描写は、ニール・スティーヴンスンやジョナサン・レセムを思わせるところもあるが、心理的な余裕を感じさせるアメリカ勢に対し、イギリスの喜劇は真剣さと表裏一体となったぎりぎりの崖っぷちで演じられる。

普通の犯罪もののつもりで書き始めた第1作が、たまたま電脳ものになってしまったため、SFに足を突っ込んだという作者だが、評価を決定付けたこの作品が第4作目。前作の reMix と共通の背景となっている。作者によれば、イギリス流のハッピー・エンドの定義は、主人公が最後まで生き延びていること、だそうである。(2001/8/4)

ちなみにこの作品は、スタンリー・J・ウェイマンの 1894年の作品 Under the Red Robe を下敷きにしたものとのことで、さすがにこちらは未読ですが、『ゼンダ城の虜』と並んで当事はかなり人気を博した剣戟ものだそうです。

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Wednesday, January 31, 2007

An Instance of the Fingerpost, by Iain Pears

1998年ということは、ほぼ10年前に読んだ作品なんですが、そろそろ邦訳が出そうですので、昔の読書感想文に少々手を入れて載せちゃいましょう。ベースは読後の興奮冷めやらぬまま知り合いに書きなぐった e-mail なんですが、わたしの文章、10年たっても全然進歩してませんね^^; 元はネタバレ満載だったので、まあまあ無難なあたりでカットしています。ネタバレ版ご希望の方は連絡ください。

An Instance of the Fingerpost1663年、王政復古が成ったばかりのイギリス。まだ過去の紛争の火種も消え去らぬ中、旧教世界からの陰謀の懸念もそこかしこでほの見える。同時に、この時代は科学の黎明期でもあった。当代一流の知識人や大立者が群れ集うオックスフォードで、一人の大学職員が毒殺され、自由主義的な挙動が常々顰蹙を買っていた元メイドが疑われ、絞首刑となった。物語はこの事件の周辺にいた4人の登場人物が、それぞれ独自の視点から自分の物語を語る手記によって構成されている。

口火を切るのは、ひょんなことからイギリスを訪れることになった医者の卵のイタリア人。作者は、実在の学者たちとのやり取りを織り込みながら、この時代の医学/物理/化学の状況を描き出すとともに、異国の生活の端々をたくらまざる皮肉を込めて語る。大けがをしたメイドの母を治療することとなった医者の卵は、最後の手段としてかねてからあたためていたアイデアである輸血を行う。血液の役目もきちんと理解されておらず、ましてや血液型などという発想のない時代、健康な人間の生気を移すという意図のもとに行われた治療だが……。当時の人々の医療観が巧みに生かされた、独立した中編として読んでも十分に印象的な力強い導入のエピソードである。

次の語り手は、裏切り者として断罪された王党派の郷士を父に持つ法律の学生。父の無実を信ずる彼は、父を陥れた罠の存在と裏切り者を暴くべく、かつての父の同士の間を巡り歩く。過去を掘り出す語り手の作業を通して、作者は王政復古が成るまでの社会状況を側面的に描いていく。目的のためには手段を選ばぬピカレスクな展開には、苦い結末が待ち受けている。

第3の手記の作者は実在の人物でもある数学者/暗号解読家。クロムウェルの時代から文字の置き換えによる暗号の解読に天才を発揮したが、外敵から国を守るという信念には変りはないとして、鞍替えし王の側近の一人に仕えることで、王政復古後のイギリスの政治状況にかかわっていく。暗号解読を通して以前から旧教勢力の陰謀の存在を察知していた彼は、件のイタリア人をスパイとして付け狙うが、真実は彼の理解をはるかに越えたところにあった。

そして締めくくりは、これも実在の稀覯書屋/歴史家。市民運動の歴史を調べるうちに、有名な活動家であったメイドの父にたどりつき、彼女と出会い、一言で片思いともいいきれない恋に落ちる。メイドが捕縛され、事件の背景が見えている彼は何とか助けたいとは思うものの、原因の一端は自分にあるという罪悪感や保身から、思い切った行動が取れず、苦悩する。だが、キリストの殉教をたどるように従容と死に赴く娘と、処刑後の出来事から、神の啓示のごとく、より広い視点で事件の真実を見直すこととなる。さらに晩年、他の3人の手記を入手して、王にまつわる驚愕の事実にいきあたり、娘の処刑を含めた種々の出来事はすべてこの一点に起因することを知る……。

ミステリというよりも、しっかりした歴史小説の趣ですね。というのも、作者はミステリ作家であると同時に美術史が本職で、今回この作品を書くに際して、すべて 17世紀の人間の視点/価値観/考え方に徹して筆を進めたと自信を持って語っています。

作品中、コミカルなやり取りや、えっ、と思うような描写が種々見られますが、すべて 17世紀人にとっては当たり前のことだったらしい。処刑される罪人に対し解剖用に遺体を提供してくれ、一片たりとも無駄にしないからと迫る医者、床屋で行われる抜歯、尿の味をみての診断、砒素の下剤、犬の糞の眼薬、等々々。また、共和制時代の女性の発言力が決して小さくなかったこともかなり意外です。

ありがたいことに、作者はイギリスの歴史を全く知らない人間でも(つまり、わたしのことですが)、十分状況が理解できるように書いてくれてます。勉強になりますね~。その上で当時の医学・物理・化学・芸術・法律・政治・神学・宗教・歴史……と、驚くほどの広範囲を網羅し、当時の社会と日常生活を描き出すと同時に、実在の人物をもまじえたリアルな登場人物のやり取りから、当時の価値観・世界観を浮き彫りにし、17世紀という時代をホリスティックに再現していきます。どこをとっても本格的な歴史小説の手触りですね。

でもやっぱりこの作品はミステリ以外のなにものでもありません。とはいえ、この作品の核となる大学の職員の毒殺事件は、意外にもこの物語の中で一番重要でない要素。普通のミステリでは焦点となるはずの、誰が殺したか、なぜ殺されたかは、ここではほとんど意味を持ちません。

それでは、どこがミステリなのか。

真意を隠した信頼できぬ語り手による個々の手記が、それぞれ謎を秘めたミステリであると同時に、無実でありながら従容と処刑にのぞむ娘の動機や、なぜ娘が処刑されることとなったのかが、二重三重のミステリを構成しています。そして、注意深い読者のみが気づく、個々の物語を飲み込んで全体を覆う唖然とするような歴史上の謎……。うう、思い出しただけでもゾクゾクしますね^^;

個々の登場人物がそれぞれの視点から同じ事件を眺める、羅生門的、あるいは最近ではコロンバイン的と呼ばれている書き方なわけですが、生まれも育ちも社会的立場も違う人物が、同時にそれぞれのオブセッションにとらわれているため、対象を正しく眺められないだけでなく、自分自身の置かれている立場もきちんと理解できません。輸血にこだわる医者の卵、父の無実を狂信する法律の学生、陰謀にとりつかれた暗号解読家、そして娘への愛にとらわれた稀覯書屋。救済にとりつかれた娘もここに加えるべきでしょう。

作者によれば、それぞれのエピソードは、実験的真実、法律的真実、政治的真実、そして絶対的真実という、四つの視点を体現したものとのこと。そして、科学の進展により、それぞれの真実が独自の立場を取り始め、核を失いつつある 17世紀という時代に、絶対的真実は神の元にしかないという認識から、宗教的立場で物語を締めくくったとか。だが、最後の手記の作者も強いオブセッションにとらわれていたのではなかったか?

個々の語り手が、それぞれ犯人を追う探偵のように、他人の手記を引き継ぎながらその欺瞞を暴き、独自の視点からフレームをすえ直し、より大きな背景のなかにそれぞれのエピソードを位置づけていき、最後には王室をも飲み込む巨大な陰謀を描き出す。いや、それどころか神の介在をも匂わせてしまう。真実と誤謬の物語をマトリョーシカのように重ね合わせ、一冊に何冊分ものミステリを詰め込んだ、化け物のような本といえるでしょう。

複雑な構成の歴史ミステリの大作ということで、『薔薇の名前』が引き合いに出されることが多いですが、地についた作風のため、とりたてて似ている感じはありませんね。ちょっと不満なのは、漠然とした印象ですが、すっきりと書かれすぎているせいか(といってこれでややこしく書かれたらついていけませんが)、普通ならこの手の作品が提供してくれる「深み」とか「重み」の印象が意外と薄いこと。「厚み」は十分ありましたけど……いえ、物理的な厚さじゃなくて、物語の厚みです^^)

イアン・ピアーズ(ペアーズ?)の作品は、イアン・ペアズ表記でデビュー作の『ラファエロ真贋事件』が出ていたのが、現時点では唯一の邦訳かと思いますが、しっかりしたアイデアの作品ではあるものの、コージー・タイプの雛形に一字一句忠実に従ったような印象で、まるで別人が書いたとしか思えない作風です。ということで、『ラファエロ真贋事件』があんまり~だった人も、だまされたと思ってこちらを試してみてください。たぶん唸っちゃうだろうと思います。

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Sunday, April 30, 2006

"A Man of Light" by Jeffrey Ford

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受賞記念ということで、タダで読める短篇のご紹介。

 先頃、長篇 "The Girl in the Glass" が、米国の優れた推理小説に贈られるMWA賞のペーパーバック・オリジナル部門を受賞し、ミステリの世界でも認められた形のフォードだが、この短篇もまたファンタジー色の強い、味わい深いミステリ作品に仕上がっている。

 光の魔術師ラーチクロフトは、光の特性を利用したあらゆるマジックをやってのける。ある日、新聞記者のオーガストがこの人気絶頂の大物魔術師にインタヴューを申し込んだところ、なぜかすんなり受諾の返事が返ってきた。

 インタヴューの当日、現れたのは浮遊するラーチクロフトの頭だけだった。ここでも彼は光のマジックを披露したのだ。いざインタヴューとなると頭だけのラーチクロフトは、オーガストの月並みな質問を退け、夢で見たという不思議な殺人事件の話を始める。

 その後、専門の光の話題に入るのだが、彼によれば太陽や蝋燭の〈外の光〉とは別に、体内から発する〈内なる光〉があり、彼はオーガストのような記者を〈内なる光〉のメッセンジャーにしたいという。そのメッセンジャーの出入りのために、彼は眉間に穴を穿っていた。さらには光と闇の戦いに話は及び……。

 光の魔術師が語る摩訶不思議な物語。それが現実としてオーガストに降りかかるとき、読者はまるでエッシャーの絵を見たときのような、奇妙な感覚にとらわれるだろう。『アイスクリームの帝国』同様、こちらも独特の雰囲気が魅力のフォードらしい作品だ。

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Tuesday, April 25, 2006

Singularity Sky, by Charles Stross

いまや現代SFの代表選手となったストロスの長編第1作のレヴュウを引っ張り出してみました。

Singularity Sky事の起こりは空から降ってきた無数の電話だった。鄙びた植民惑星ロウチャード星で、工業製品とは縁のない生活を送る田舎町ノーヴィイ・ペトログラードの住民たちは、おそるおそる電話を取り上げる。聞こえてきたのは「楽しませてくれないかい?」という得体の知れない声。何か話を聞かせれば、三つの願いを叶えてくれるというのである。人々は物語を語り、空からは食料や自転車が降りそそいだ。宇宙空間では、闖入者の宇宙船が、植民惑星の月をせっせと工業製品に作り変えていた。

封建領主制でロウチャード星を縛るニュー・リパブリックの帝政に対し、密かに反抗心をつのらせる面々は、電話に向かって革命理論を語り、万能物質変換機を手に入れる。農民の反乱の始まりだった。ひねくれた民話をプロローグとした物語は、未知の来訪者「フェスティヴァル」と、前近代化社会を維持する帝国の闘争という、ロシア革命のパロディへと姿を変えていく。帝国軍は重装備を備えた船団を植民惑星に送り込む。ジャンプ・ドライブによるタイム・トラベルで過去に遡り、「フェスティヴァル」の到来を迎え撃とうというのだ。

とまあ、ここまでなら旧弊なミリタリーSFの定石で、せいぜいジョー・ホールドマンの『終りなき戦い』の焼き直しといったところだが、ポスト・シンギュラリティが表看板のストロスのこと、ありきたりのスペース・オペラでは終わらない。この作品の舞台は、ヴァーナー・ヴィンジのいうシンギュラリティが起こったあとの世界なのである。

21世紀半ば、急速な技術の発展により、究極のAI、エシャトンが出現し、世界は一変した。なんの説明もなく、エシャトンは地球の人口の九割をワームホールを通じて銀河の各地に植民させたのだ。それから四百年、東欧出身者が植民したニュー・リパブリックは19世紀の政体に退行した。いっぽう、電脳空間にアップロードされた人類は、宇宙を巡って各地の文化や人類以外の意識を取り込んで「フェスティヴァル」を形成した。(このあたりの設定はヴィンジの『遠き神々の炎』を連想させるが、イデオロギーの対立の図式や多彩な意識の形態といった点で、ケン・マクラウドやアレステア・レナルズなど、ストロスと同郷のイギリス作家とも呼応をみせていて、ちょっと面白いところ。)

物語は、宇宙船のエンジンの修理のために帝国の本拠を訪れたマーティンと、情勢を探るため国連から送り込まれたレイチェルという二人の地球人を軸に展開する。エシャトンは人々の行動に干渉することはなかったが、因果律の否定に対しては容赦なく対処した。因果律を破る文明があれば、星系もろとも葬り去ってしまうのだ。タイム・トラベルという禁じ手を使えば、ニュー・リパブリックも破壊されかねない。250光年離れた地球への影響を恐れたレイチェルは、押しとどめようと画策する。いっぽう、マーティンも無害な技術者の仮面の裏にある使命を秘めていた。だが、バルチック艦隊を思わせる帝国軍は、小刻みにジャンプを繰り返し、刻一刻と「フェスティヴァル」との決戦の地へと向かう。

2001年からアシモフ誌に掲載されている「ロブスター」に始まる「アッチェレランド」の連作短編で、一躍時代の寵児と化したストロスだが、この長篇第一作の出版にはかなりの紆余曲折があったようだ。執筆時期は96年から98年と「ロブスター」以前に遡るが、編集者のもとで2年間店晒しにされたあと、ようやく買い手がついたと思ったのもつかの間、Festival of Foolsというタイトルで出版を予定していたBig Engineは昨年倒産し、やっと2003年になって老舗のエースからお目見えしたというもの。正直なところ、やはり本領発揮以前の作品らしく、話運びはいまひとつといった感はぬぐえない。とはいえ、大技小技の連続に皮肉の利いたユーモア、時折見せる詩情に、ニヤッとさせられるトリヴィアの数々と、過剰なまでの情報の奔流に、作者の才気が漲った力作である。

86年のデビュー以来、IT産業に身をおきながら細々と短編を発表してきたストロスだが、ブレイク後は大忙しで、本作の続編や「アッチェレランド」の長篇化、歴史改変もののシリーズなど、今後二年ほどの間に七冊の長篇の出版予定があるという。「短編の名手」という枕詞が「SF界の第一人者」という呼称に取って代わられるのもそう遠いことではなさそうだ。(2003/12/9)

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Monday, April 10, 2006

"Volunteers" by Alexander C. Irvine

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 少年は幼い頃母を失った。そのとき父は他の女と一緒にいた。それはずっと少年の心の中で蟠りとなっていた。

 少年が一歳のとき、巨大隕石が地球に衝突する危機が迫った。同じ頃、三匹の地球外生命体が発見され、四次元航法で宇宙空間を移動する彼らを利用し、人々を地球から避難させる計画が持ち上がった。しかし操縦には宇宙人に好かれた者が〈子宮〉と呼ばれる船室に入り、宇宙人と心を通わせる必要がある。宇宙人エヴリンに選ばれたのは、息子を授かったばかりの父だった。愛する家族を救うため、彼自身もその宇宙船の船長になることを志願する。だが〈子宮〉の中は安全で居心地がよすぎた――微睡みの中で彼は乗員の生命維持装置の確認を怠り、惑星カナンに降り立てたのは二千人のうち約四百人。母もこのとき死んだのだ。

 父の置かれた状況は特殊だ。だが作者は平行して、新天地で地球の古き良き五〇年代を模倣する移民たちの退行振りを描き、安全なコクーンの中に籠もるのが人間全般の有害な性向であることを示唆する。

 物語は謎めいていた事柄を徐々に明かしながら進行し、ラストで病んだ社会から同じ宇宙船に乗って脱出する少年の姿を当時の父に重ね合わせて、見事にその心理を解き明かす。

 二〇〇二年のデビュー作 "A Scattering of Jades" が高い評価を受けたあとも、良質の長篇・短篇を間断なく発表しているアーヴィンは、日本でも積極的に紹介されて欲しい作家のひとりだ。

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Sunday, April 09, 2006

Mars Crossing, by Geoffrey A. Landis

もう5年も前に書いたレヴュウですが、5月に邦訳が出るということで引っ張り出してみました。直球勝負の力作ですね。

Mars Crossing1996年のマーズ・パスファインダーによる火星探査の成功は、長い長い火星SFの伝統に、また最新の視点による作品を付け加えた。ここ1、2年の火星ものの新作をひろってみると、ベンフォード、ボーヴァ、オールディスといったヴェテラン勢の名前が目につくが、本命はやはりこのジェフリイ・A・ランディスになるだろう。マーズ・パスファインダーの開発に参画した現役のNASAの研究者でありながら、余技とは思えない良質の短編で、ヒューゴー/ネビュラの受賞を含め、十年以上にわたり高い評価を得てきた作者だが、長らく待たれていた初の長篇は、ホームグラウンドである火星を舞台とした、徹頭徹尾リアルなサスペンスものとなった。

悲劇に終わった前二回の有人探査を背景として、期待と不安を胸に、六人の乗組員が着陸船ドン・キホーテで火星の南半球に降り立った。だが、六年前に送り込まれて、周囲の土壌から燃料用の水素と酸素を蓄積し、帰還に備えてきたはずの離陸船ダルシネアの燃料タンクは、無残にも腐食していた。地球からの救援は経済的にも時間的にも到底望めない。唯一の帰還の可能性は、最初の探査隊が絶滅したために北極点に残された離陸船に到達することだった。だが、ランドローヴァーで三千マイルの距離を駆るだけの燃料も確保できない。一行は資源確保の望みをかけ、離陸後に悲劇に見舞われた二回目の探査隊の跡地を目指す。行く手をさえぎる大峡谷を越え、生死を賭けた火星縦断の旅が始まった。

人種も背景もまちまちな六人に共通するのは火星への思いのみ。作者の筆は短い章立てで個々の登場人物の過去と火星での道行を行き来し、緊張感と不協和音を駆り立てる。ヴェテランの宇宙技術者、天才的な宇宙飛行士、優等生の医師兼生物学者、タイ人の地質学者、資金調達用のくじで搭乗券を手に入れた少年、そして火星で死んだ最初の探査隊員の妻。それぞれが火星を目指すに至った過去のドラマは、次第に現在の人間関係に影を投げかけ、非情な環境での悲劇を助長する。しかも、離陸船には、たった二人分の乗船スペースしかないのだ。

火星の環境とそこでの技術の描写は、さすがに第一人者であることをうかがわせる。大峡谷での低重力下のロック・クライミング、太古の水の存在を示す地層の跡、希薄な大気でのライト・プレインの飛行、あるいは極地でのドライアイス混じりの雪上スキーなど、迫真的な描写にはことかかない。一方で、作者の冷徹な視線は人間的側面にも平等に向けられ、生々しい悲劇が徐々に叙事詩的な色合いを帯び、精神的な解放へと昇華していく過程を感じさせる筆力はなかなかのものである。特に、究極のジレンマの解決を、技術的手段に求めず、心理的に処理したことは、この作品にふさわしい印象的なクライマックスをもたらしている。

どうも作者はこの作品を書くにあたり、山岳ものや極地探検を扱ったノンフィクションを相当意識しているようだ。個々の登場人物の背景を、直接メイン・プロットに関与させるというよりは、心理的に機能させるレベルに留めている部分とか、心象風景と目の前の現実との小刻みな視点の切り替えは、エベレストでの遭難を描いたジョン・クラカワーの傑作『空へ』での手法を思い起こさせる。反面、そのアプローチが、ストーリー的な面白さに欠ける、地味な作品にしていることも事実で、プロットを成り立たせるための工夫が逆に作用し、作り物であることを意識させてしまう部分も一部見受けられる。とはいえ、本物の火星の手触りを感じさせてくれる力作であることは間違いない。

ちなみに、作中に登場する、火星の土壌からロケット燃料を集積する技術は現実のもので、次の火星ミッションにはこの試作機が搭載されるという。なお、このヴェテランの作者にいまさらという感がしないでもないが、この作品は2000年度のローカス賞を第一長編部門で受賞している。(2001/8/8)

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