デイヴィッド・ミッチェルは最初に手にした Cloud Atlas がむちゃくちゃ気に入って、発表順の逆に読んで行ったんですが、number9dream はいまひとつかなと思っていたところが、デビュウ作の Ghostwritten でぶっとんで、お気に入りの作家のひとりになってます。
とはいえ今年の Black Swan Green は半自叙伝的な少年時代ものということで、あまり触手が伸びず……、じゃなくって、食指が動かず躊躇してたんですが、ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』とかマキャモンの『少年時代』のように、幻想が忍び寄るような作品の可能性もあるじゃないかと思い直し、手を出してみることにしました。実際は幻想的なところはほとんどなく、あからさまなギミックを廃したストレートな少年期もので、けっして悪くはないんですけどね、わたしがミッチェルに期待するような作品ではありませんでした。まあ作者が意図していないところをあげつらってケチをつけるなと書いたばかりですが、いまひとつインパクトに欠ける作品です。
1983年の1月から翌年の1月まで、イギリス中部の田舎町ブラック・スワン・グリーンを舞台に、13才の少年の13ヶ月を13のエピソードで綴ったという、短編を積み重ねたような構成は作者のいつものパターン。ただ、今回はミッチェルのものとしては珍しく、主人公のジェイスン・テイラーは素直に感情移入できる引っ込み思案な少年という設定で、物語はジェイスンの日常を離れることはない。大手スーパー・チェーンのやり手のマネージャの父親と、趣味で始めたアート・ギャラリーが軌道に乗り始めた母親、大学進学が決まった皮肉屋の姉という家族の元で、一見何不自由のない生活を送っている。
ところがこのジェイスン、町の少年たちの間ではペッキング・オーダーの下から数えたほうが早い位置に甘んじていて、いつ苛められっ子になってもおかしくないような不安定な存在。なぜかといえば、ジェイスンが少々どもるからだった。「ハングマン」と名づけた悪意に満ちた存在が、油断をしている隙を狙って、n や s といった子音のスムーズな発音を妨げるのである。
さらに悪いことに、ジェイスンは本好きだった。ナヨナヨしているというだけでゲイとみなされ迫害を受ける子供社会において、本好きというのは致命的な欠点だった。その上、ジェイスンは誰にもいえない秘密を抱えていた。エリオット・ボリヴァーのという名前で、教区のパンフレットにこっそりと詩を投稿していたのである。詩を書いているなんていうことがばれたら、仲間たちから袋叩きにされるのは確実だった。
そして、ジェイスンに恐怖の時が訪れる。よりにもよって、隣町で母親と映画館に入るところを、少年のひとりに見つかってしまったのである……。
ということで、コンプレックスを抱えた多感な少年が、自然や町の人々とのやりとり、学校生活を背景に、いじめへの恐怖や男勝りの少女への憧れ、父親への幻滅と両親の不和を経験していく、ごく等身大の日常が全体の大部分を占めた作品。とはいえ、ノスタルジイにおもねるというよりは、ジェイスンの目を通して、遠景となるサッチャー政権下の影の部分である不況や、弱者に冷たい社会、フォークランド戦争、消費主義の台頭といった社会の変化を巧みに照らし出し、ある時代の記録を意識した作りにもなっている。
ただしまあ、ジェイスンもひ弱なばかりの少年というわけではなく、好奇心の赴くままに危うい行動をして、傍から見ればユーモラスとしか思えない状況に自ら陥るといった具合で、本人にしてみればシリアスな出来事が、読者の目にはファースとして映り、逆になんでもない描写にはっとさせられる二重性はなかなかなもの。
そして、どもりの原因となる単語を避けるために、常に別の言葉を探るジェイスンは、必然的に言葉と表現に敏感になる。マダム・クロムリンクという奇妙な老婦人にエリオット・ボリヴァーであることを看破されたジェイスンは、「クラウド・アトラス6重奏曲」の鳴り響く婦人の居間で、今まで自分の書いていた詩が飾りだらけの真似事に過ぎなかったことを思い知らされる(そうそう、Cloud Atlas に登場した老作曲家の娘が、こんなところに顔を出してるんですね。ほかにもジョン・レノンの number9dream が思いもかけないところで登場したりと、このあたりはミッチェルのファンならではの楽しみです)。
そう、主人公の作家としての成長の物語が、この作品のテーマのひとつとなっているのだ。ただし、13才という年齢設定に合わせた扱いのため、この部分はかなりベーシックで、いまひとつ中途半端という感じは否めない。それよりは、作品全体が1982年当時のイギリス中部の田舎の少年たちの間で使われた言葉で彩られていることのほうが、言葉というモチーフに直結しているだろうか。何かといえば "ace" や "epic" を連発するジェイスンのモノローグは、なかなか生きのいい語りの空間を作り出している。
さらに、意図的にばら撒かれた当時のテレビ番組や映画、ゲームやファッション、若者たちのアイドルに菓子類といったポップ・カルチャーへの言及が、ジェイスンの日常にアクセントを与えている。とくにポピュラー・ソングの扱いは徹底していて、80年代初頭の「ブリティッシュ・インヴェイジョン」という言葉に聞き覚えのある人であれば、曲のタイトルだけでメロディが頭の中で鳴り響くというなんともうれしい構成となっている(ほとんどの曲がすぐさま思い浮かぶので、自分でもびっくりしました。ひとつひとつの曲に明確な個性があった時代、そしてみんなが同じ曲を聴いていた時代だったんですね)。
さて、お目当ての幻想に彩られた場面はあったかといえば、冒頭に置かれた、凍った湖で足をくじいた少年が、見知らぬ老婆に湿布してもらうエピソードは、グリム童話の森を舞台にしたかのような恐怖譚のおもむきで期待させるし、ところどころにジェイスンのキャラクターから滲み出す詩的なシーンや、小説上の仕掛けから導き出される意外性が顔を出すものの、基本的には普通の思春期の少年の等身大の日常を描いた小説という枠から大きく踏み出すことはない。
この、「普通の思春期の少年」の「等身大の日常」を描いた「小説」ということが、よくも悪くもこの作品の枠となっているように思える。ポジティヴな側面としては、現実に徹することで、大仰な仕掛けに頼ることなく、登場人物の日常に寄り添って、丁寧に扱ったささいなディテールから人と社会、時代を再構築していることが見受けられ、これはいわばミッチェルが今まで批判されてきた人物造型の弱さや日常性の不在に焦点を当てた結果であり、その意味では成功しているといえる。
しかしながら、「普通の思春期の少年」というのは、少女も同様だが、それ自体はけっしてスリリングな存在ではない。「等身大の日常」は、逆に捉えれば、大きな飛躍はできないということだ。「小説」であるということは、いかにうまく書かれていようと、現実の迫真性を放棄したということである。現実的な少年の視点に縛られたことで、結果として人や社会、時代を描く筆も制限を受け、作者が重要視していると思われる「若き作家の肖像」の部分も、いまひとつ竜頭蛇尾の感が否めない。
作者の実体験だという「どもり」を切り口としたわけだが、これもいささか手法としては弱いといわざるを得ない。例えば、同様の視点で成功したマーク・ハッドンの『夜中に犬に起こった奇妙な事件』や、ジョナサン・レセムの『マザーレス・ブルックリン』は、普通ではない主人公を設定することで、見慣れた日常にスリルを持ち込んだ。DBC・ピエールの Vernon God Little は、主人公のハイパーアクティヴともいえる大仰な語りでスラップスティックを通した社会風刺を実現している。あるいは、ミッチェルがこの作品を半自伝的な小説ではなく、メモワールとして書いたのであれば、作者の実像がもっと真摯に伝わってくるものとなったかもしれない。さらにいえば、『たんぽぽのお酒』や『少年時代』、あるいはグレアム・ジョイスの Tooth Fairy や The Facts of Life のように、現実を補強する幻想を梃子にすれば、よりダイナミックな作品作りができたのではないだろうか。
ベストセラーや長く読み継がれる作品には、欠点があったとしても何らかのオーラやカリスマが宿っていると思っているが、どうもミッチェルの Black Swan Green には、これといった欠点はないものの、そのカリスマが感じられない。残念ながら上述の作品と並べられるほどの傑作とはいえないようだ。
とまあ、どうも後半は勝手な期待による文句ばかり並べてしまいましたが、作品としてはけっしてつまらないものではなく、十分楽しめるし、読む価値はあります。ただまあこれがブッカー賞の最有力候補とはとても思えないですね。逆に、ミッチェルのファンとしては、この作品で受賞して欲しくはないです。ショートリストの発表がもうすぐですが、番狂わせで選から漏れてもわたしは驚きませんぞ(いやまあこっそりとがっかりはしますけど)。
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