"Insect Dreams : The Half Life of Gregor Samsa" by Marc Estrin
us hc: 0399148361
us pb: 0425188604
us pb: 1932961097 (2005/10)
主人公の名はグレゴール・ザムザ。ある朝目覚めたら超特大のゴキブリになっていたという、不幸この上ないあの男だ。その醜い姿は家族からも嫌悪され、何の咎もないのに父親から林檎を投げつけられたこともある。カフカの『変身』によれば、ザムザは誰にも顧みられず、身体に埃を積もらせゴミを絡ませたまま、飢えのため敢えなく死んでいった……はずだった。
一九一五年ウィーン。サーカスの興行師アマデウス・ホフヌンクのもとに、是非見せたいものがあると持ち込まれたのがザムザだった。奇物蒐集癖のあるアマデウスは、人間と同じ大きさの言葉を喋るゴキブリ男を大層気に入る。こうしてザムザはほかの異形の団員と共に、アマデウスの見世物小屋で第二の人生を歩み始めることとなる。そして知的なゴキブリは瞬く間にサーカスの人気者になる。
世界の中心が老欧州大陸から新興国家アメリカに移るのと同じ頃、ザムザはサーカスを捨て、単身アメリカに渡った。右も左も分らない彼は、ひょんなことからエキセントリックな作曲家アイヴズと知り合い、彼の経営する保険会社に雇われる。ザムザはそこでリスク・マネジメントの研究に没頭するのだが、それがきっかけであれよあれよと言う間にルーズベルト大統領のブレーンにまで登り詰めてしまう。そして米国が第二次世界大戦に参戦するや、マンハッタン計画が進むロスアラモスへと派遣され、ナチス・ドイツに対抗して開発中の原子爆弾の、環境への影響を調査することになる。ところが彼の地で高名な物理学者たちと交流し、またインディアンのプリミティヴな文化に触れたことによって、ザムザは核に対する不安感を徐々に募らせ、初の核実験の日が刻々と近づくなかで自分なりの結論を出し、とうとう行動にでることを決意する。
心と身体に深い傷を負うインテリゴキブリのザムザが、感動し、恋をし、悩みながら、二十世紀前半の歴史を所狭しとせわしなく駆けめぐるこの物語は、そのハチャメチャなストーリー展開と、ウィットに富んだコミカルな筆致で間違いなく読者を楽しませてくれる。チェロ奏者でもある作者の、リズミカルでリリカルな文章も魅力的だ。物語のそこかしこに音楽的モチーフが多く散りばめられ、実際にいくつかのエピソードではよく知られた楽曲が効果的に使われている。これらが物語全体を、叙情性に富むひとつの交響楽のように仕上げているのだ。
ザムザは、ウィーン、NY、ワシントンDC、ロスアラモスと拠点を移すたびに多くの実在の人物たちに出会い、互いに影響を与え合っていく。登場するのは変わり者や、社会からのはみ出し者がほとんどだ。哲学者ウィトゲンシュタイン、音楽家兼保険屋チャールズ・アイヴズ、女性人権活動家アリス・ポール、進化論を教えて罪に問われた生物教師スコープス、理論物理学者アインシュタインやオッペンハイマーなどなど。彼らは世間からどう思われるかには頓着せず、自分の頭で考え、自分の信じたことに突き進んで行くタイプの人間たちだ。作品中ではひどくデフォルメされているものの、その人間性は損われることなく、私たちが知るよりも実に生き生きと描かれている。
本書は、ただのスラップスティックや、二十世紀前半の懐古小説には終わらない。「元ユダヤ人」「人間の嫌う害虫」「強いドイツ語訛りの移民」という三重苦と、トラウマとなって時々ひどく疼く背中の傷に悩むザムザの、自己探求の物語でもあるのだ。心身に痛手を負う彼であるからこそ、社会的弱者に向ける目も温かい。しかし、なによりこの作品のアピールするところは、アメリカ初の原爆実験に際し、核所持の必要性と正当性に思い悩むザムザの姿にあるだろう。現代人にとってこれは、十分な証拠のないままイラクに侵攻し、戦後処理と復興の主導権を握って采配を振るアメリカに対し、疑問を抱きつつ何もできずにいる己の姿に重ならないだろうか。そう、この小説は荒唐無稽なファンタジーを装った寓話なのだ。
Insect Dreams、虫けらの夢、理想主義者ゴキブリ・ザムザの夢……。いや、これは大きな時代の流れに逆らえない、ちっぽけな人間の無力で果敢ない夢だろうか。
アメリカ・ヴァーモント州在住の著者マーク・エストリンはこの小説で、歴史的事実に虚構を巧みに織り込み、独特のユーモアで軽快に文章を綴りながら、普遍的な社会問題について問うという難事を、いとも軽々とやってのけた。さぞかし老練な作家と思いきや、本書が彼のデビュー作というから驚きだ。今後どのような作品を私たちに届けてくれるのか、今からとても楽しみだ。(2003.12)
| Permalink
|

Comments
これはかなり好きだったのですが、日本のアマゾンでは在庫切れなんですね~。残念。Amazon.com では24時間以内に発送なのに。でも10月にはまたペーパーバックが出るみたいです(ヤングアダルトとか書いてありますが、あれは嘘です。一般向けです)。中身は Amazon.com で少し読むことができます。
Posted by: Lilith | Wednesday, July 27, 2005 at 22:17
で、楽しみにしていた新作ですが、アーノルド・ヒットラーという不幸な名前を持った青年の物語 "The Education Of Arnold Hitler" で、こちらでも主人公が歴史上のいろいろな人物と遭遇していくみたいですが、50~70年代ということなので主人公を別にした続編と言えそうです。彼の作品の場合、フォレスト・ガンプみたいにただ懐かしいだけでなく、しっかりした主張があるところがいいので、こちらもそのうち読んでみたいと思います。
Posted by: Lilith | Wednesday, July 27, 2005 at 22:20